2012年12月23日日曜日

だれもなんにも書かなくなって


ブログとかみんな殆どやらなくなったよなあ、と考えた。

思えばツイッターが流行る前は、みんなブログやミクシイとかで日記を書いていた。
私も、今振り返るとちょっとどうかと思う位の頻度で書いていた。
自己顕示欲がどうの、みたいなこともあったのかもしれないけれど、
もともとは自分の書いたものを人に見られるってことに慣れたい、と思ったのが最初だった。で、以後中毒になったわけだ。

ツイッターが流行りはじめてからはみんなブログやミクシイをあまりやらなくなった。

そういえば、そのミクシイからツイッターへの過渡期ドンピシャくらいのタイミングで、
「サンシャイン牧場」というミクシイのなかで遊べるゲームみたいなのが異常に流行っていた。
内容は畑の運営だ。
まず畑に種を買ってまいて、水をやって、虫がきたら退治して、作物が実ったら収穫する。たくさん収穫してレベルが上がると畜産農場を持つことができて、そこで牛とか豚、あと時期によって限定でゲットできる生き物(これがまたぶっ飛んでいた。たとえば獅子舞とか)を家畜にすることができた。

こうやって書くと、獅子舞を家畜にできること以外は非常に単純な内容なのに、どうしてあんなにみんなハマってたのかなあと思うのだけれど、とにかくみんな必死だった。

だけど同じくらいのタイミングでツイッターがだんだん流行りはじめ、次第にみんなツイッターばっかりやってミクシイに日記をかかなくなってサン牧だけやるようになり、ツイッターが完全に流行ってきた頃にはサン牧すらやらなくなった。
私も、ツイッターにかまけて畑と農場をほったらかしにしがちになった。
畑は荒れて虫がわき、畜産農場には家畜が獅子舞しかいなくなった。
獅子舞が一匹、のしのしと農場を歩き回る画面をみたとき、私は「サンシャイン牧場もういいや」と思った。

話がちょっとそれた。
サン牧の話じゃなくて、ネットで日記とか文章をかくことについて書きたかったのわたしは。

だからそう。そうしてみんな140文字以内で気持ちを垂れ流すようになったの。
そうやって人がみなミクシイと畑を捨ててツイッターばっかりやるようになったのは、
たぶん、ツイッターのほうがずっとラクチンだったからだと思う。

けれどツイッターは不思議だ。

何十人、何百人ものフォロワーが発する140文字以内の短いセンテンスがつらつらと、リアルタイムに画面を眺め、それをスクロールしながらさ〜っと読んでいくっていう作業はそれまでしたことがなかったし、冷静に考えると結構とんでもないことだと思うけど、今やそんなこと苦でもなんでもなくなっている。

また、小学校の作文の時間に、原稿用紙が何枚あっても足りないような子だった私が常に140文字程度で言いたいことを述べるようになったのもとんでもないことだ。
まあ連投することもあるけど、せいぜい4〜5ツイートに渡る連投、原稿用紙換算すると400字詰めのものを2枚の分量にも満たないだろう。

ツイッターに慣れることで、いままで簡単にできなかったことが当たり前にできるようになったのだ。たくさんの情報を一度にみることも、情報を短いセンテンスで発するということも。

それに気づいたとき、私はうれしかった。
ああもう昔ミクシイに書いていたような長ったらしい暗い文章をかかなきゃすまないような病気がなおった、
まるで開き直ったように短い文でぽーんと放り投げられるようになった、と。

だけどそうやってヘラヘラと生きているうちに、あることに気づいてしまった。

長い文章が読めない&書けない。

前は出来たことが出来なくなった悲しさというのは、
前はできなかったことが出来るようになった喜びの2倍くらいの悲しさだ。
私は退化した。忘れちゃったんだ。

もしかしたらこんなの私だけかもしれないから、とてもおせっかいな話かもしれないけれど、
こういうことが、今ツイッターやってるみんなの頭のなかに起こってるのではないかと思うとちょっと怖い。

だって想像してみてほしい。このままどんどんみんなが長い文章を拒絶するようになって、短い文章じゃないと受け止めきれなくなった世の中を。
マンネリ化した夫婦が「お茶」「ん」みたいな会話をするのとそう変わらない感情表現が当たり前になっちゃったりしないかなあって。

ラインがやたら流行ってるのとかもそういう可能性を意味してるなあと思う。
あの、へんなスタンプでなきゃ気持ちを表せなくなったら、心なんてなくなったも同然。



そんなことを考えて数年ぶりにブログをつくりました。
ミクシイはパスワードをわすれてログインできなくなった。
まとまりのなさの言い訳はすべてこのまとまりのない文章のなかに。