2013年8月29日木曜日

白光

さまざまないろから白いひかりがうまれ
白いひかりはなによりもあかるく
白いひかりのなかに山並みはもえる

そういうことがあるから
大学生のときに、もっと照明のことを学んでおけばよかった






2013年8月25日日曜日

ジャガイモの皮を剥きながら考えるのはいつも悲しいこと
水のくさったような匂いは人間のにおいだとおもう
完成されようとしている
それを食い止める
床に落ちた髪
短い夏

2013年8月17日土曜日

真っ暗な回送列車がそろそろとホームを通り過ぎて行く
来そうで来なかった世界の終わりをみているような気持ちになる

2013年8月12日月曜日

映画「勝手にしやがれ」のことを思い出していて、ああパトリシアくらい金髪に染めたいないいなあと考えたのだけどそういえばあれ白黒映画だった

ゴダールの映画の大半は下世話な印象で見終わった後などにはクククとおもう


2013年8月4日日曜日

死と美について

日本橋のホームで死んでしまった人を見かけた。
小雨の降るじっとりとした朝だった
わたしはその日何ともなしに悲しかったので、
こんな朝にあのひとが死にたくなる気持ちがわかるような気がした
青いビニールシートに覆われていくそのひとは、
死んでいた

わたしは憂鬱な乗り換えのために混雑した階段をのぼりながら、
足の筋肉が重くなるのを感じて、自分の生きていることを自覚した
いまのところ死んでしまうことはないだろう
刃物で突き刺されても死ななさそうだ
かといって刺すのはやめてください

自分がまだ死ねないと思っているのは、
志半ば、とかそういうことよりも、
死ということが大層美しいものであるように、
近頃は思えてならないからだ
究極の美であるかのように思えるからだ
そしてわたしはまだそこまで美しくなりきれていないからだ

美しさということについて
たとえばその定義について
ほんとうの美しさというものについて
わたしは考えたことが今までになかったが
ある感覚で、美しさの究極というものを
死ということに位置づけてみたら、
なにもかもがしっくりくるような気がした

事実、わたしの母は、
病を患いながらもきちんと生きているが、
2年程まえから、そして近頃は顕著に
死という事を覚悟しているように見える

無論、母だってほんとうはまだ死にたくもないだろうし
死なないための努力もしていて、
血の湧くように生きる事を望みながらも、冷静な気持ちで死を受け止めている

そういう母の姿は
からだこそ老い、少しずつたしかに病人らしくなってはいくが、
今までわたしが彼女の娘として生きてきた人生の中で
最近が最も優しく、最も強く、美しくなっていくのだ
母は生きている

生きる望みを断たずに死を覚悟するしたたかさが母を美しくするのかもしれない
そうして美しさをどんどん増して、すこししたら究極の美に到達してしまいそうだ
わたしにはその美しさがまだ恐ろしい

母の美しさよ未完成であれ、と、わたしは願う
母は優しい曲線を描いて昼寝をしている
明日から母はまた入院をする
病院のご飯がまずくて嫌だと言っていた
母はまだ生きている








2013年8月2日金曜日

下着を裏返しに着けていることに気付いたのはだれもいない夜道信号待ちでそっと自分の腰骨のあたりを触ってみたときだった。静まり返ったこの街のひとたちはわたしのパンツが裏返しだなんて知りもせず眠りについているであろうと思うと孤独を優しく舐めるような気持ちになった。