2013年4月29日月曜日

日記0424

4月24日

所用で渋谷に。
ついでにポスターハリスギャラリーに寄って、天井桟敷のポスターの展示を見た。
ポスターやチケット、チラシなどの展示ももちろん良かったけれど関連書籍のコーナーに思想社から出てる戯曲集が全巻揃って置いてあって、読んでみたいと思っていた「観客席」という舞台の戯曲を読ませて貰ったのが嬉しかった。

定価で買うのにはちょっとわたしには今は手が出なくて古本屋さんでもほしい巻と巡り会えなかったのでこれほどまでの機会はなかった。
でもよくよく考えたらもしかして大学の図書館とかにはあったのかもしれない。
大学の頃は寺山修司に興味はあったものの、いざ本を数冊読んだら不良くさいのと男くさいのですぐに敬遠してしまっていたから図書館に言っても探しやしなかったけど、無いわけがない気がする。

「観客席」はどこかの劇団に再演をしてもらって是非見たい。
客席が燃える、とか客席にカエルが放される、とか書いてあったけど。



展示を見たあと、ギャラリーのすぐ近くのバーのようなところで関連展示をしていると聞いたので寄った。

こちらには天井桟敷の海外公演のポスターが数枚飾られていた。
店はカウンター席のみで、お客さんはわたしとあとから入ってきたお兄さん2人組だけだった。コーヒーを頼んだらマスターのおじさんが豆をひくところから丁寧にやってくれた。とてもおいしいコーヒーだった。

マスターのおじさんは白い厚手のシャツに履きこなれたジーンズを履いていて、派手でも地味でもない感じのかっこいいおじさんだった。わたしにコーヒーを出し、お兄さんたちにビールを出すと、カウンターの端っこに座ってレコードをかけ、タバコを吸いながら鼻歌を歌った。気楽なもんだなあと思った。コーヒーは200円もまけてくれて300円だった。おじさんは幸せなのだろうなと思った。

店を出たら雨が降っていた。
しんどいなと思ったけれど、美味しいコーヒーをいただいたことだし傘を買って渋谷を歩いた。

帰り際やっと勇気を出してはじめて1人でまんだらけに入って安部慎一の漫画を買った。渋谷にきた最初の目的は、本当はコレだった。漫画なんて殆ど買ったことがないしそういう文化が恐ろしくさえあった。きちんと楽しめたのは高3の時に読んだ松本大洋くらいで、だけれど松本大洋の漫画をもっと読みたいと思って探し回る自分を卑しくて仕方ないようにも思っていた。

だからまんだらけという所は店構えからしてやばい印象を持っていたが、入ってみたら案外女の人がいっぱいいて安心した。しかし安心したのも束の間、その女の人たちはこぞってBLモノなんぞを血眼で漁っていたので、背筋と脇のあたりがゾッとした。

ともあれ、探してもなかなか見つからなかった漫画がパッとみつかり、他にも興味深い本がたくさんあったので、まんだらけはいいところだと思った。

珍しく漫画を買ったこともあり少し不良のような気持ちで渋谷を後にした。でもよくよく考えたら平日の昼間にこうしてぶらっとしているなんて不良の他になんでもないのだから、これからは漫画だってなんだって読もう。少女漫画とかも本当は読みたい。












2013年4月24日水曜日

明日の煙


人が煙草を吸うところがすきだ。
それから、喫煙者に煙草を吸うことについて聞くのもすきだ。
それはどんな味なのか、とか
日に何本吸うのか、とか
はじめて吸ったのはいつか、とか
どうして吸いはじめたのか、とか。

いままで聞いた統計だと、たとえば「どうして吸いはじめたのか」という質問には、「かっこつけたくて」という回答が多い。特に男の人。女の人だと、「昔の恋人の影響で」「ストレスで」という回答が多い。
いずれにせよ人が煙草を吸う理由は、それほど多様ではない。

わたしは煙草を吸わない女だ。
煙草は、いちいち持ち歩くのや買い足すのが面倒臭そう。だから喫煙者になりたいと思ったことはない。
それに、やめたくてもやめられなくなってしまうのが嫌だ。煙草をやめられない状況というのは、いつまでも昔の恋を引きずって、同じ失敗を繰り返すことしかできない状況に似ている。だから、いやだ。そんなふうになりたくない。
そもそもわたしには、煙草など笑っちゃうほど似合わないであろう、あんな格好のつくものは。

だけど、いつかわたしにも煙草を吸う日が訪れるような気がしている。
たとえば5年後、家族と離れて、恋人もないままひとりだったら、わたしは煙草を吸っているだろう。
多くは吸わないであろうが、一日に一本くらい、夜中に部屋で、ひとりで、ろくに服も着ないまま、吸うのだろう。

吸い始める理由は、わたしの場合はなんだろう。大した理由はないんだろうけど。そもそも吸うかもわからない。これはあくまで予想の話であって。
なんとなくね、煙草の煙がくゆって、ぼんやりと広がっていくみたいにして、そんなふうに予想できたという、ただそれだけの話。

おやすみなさい。










2013年4月21日日曜日

理想郷


とある文献で、「ユートピアと桃源郷は同じ理想郷でも全く性質の異なるものだ」という記述を見かけた。
なんでもユートピアは社会主義的なルールをもって築きあげた理想的な国家のことで、つまりは、人々がすごく頑張って作れば、夢や幻なんかじゃないところのことだそうだ。
対する桃源郷は、どんなに頑張っても到底たどり着くことのない、つまりはうつくしいおとぎ話のような、夢か幻の存在なんだという。

そうなってくると、桃源郷が気になる。どんなところなんだろうなあと思って、調べてみると、桃源郷について書かれた『桃花源記』というお話が、青空文庫に転がっていた。

開いてみると、だいたい想像はしていたが、漢文。横に書き下し文もついてたけど、旧字仮名遣いで、なんとも読みにくい。受験生かよと思いながらも、読めば理想郷に行けるような気がして、昔の教科書を引っぱり出し、無理矢理読む。

ざっくりとした読みだが、だいたいのストーリーはこうだ。

むかしむかし、漁師の人が船にのっていたら、途中でなんだかわけのわからないところに来てしまった。漁師が途方に暮れていると、船は見知らぬ岸にたどり着く。とりあえず岸だと思って、漁師はそこに船をとめて上がってみると、そこには人が通れるくらいの丸い穴がぽっかり空いた門が構えてある。丸い穴をくぐると、中では仙人が行き交い、田畑は潤い、桃の花が、とってもきれいに咲いている…!
漁師はそこで仙人の家に招かれ、ねんごろな世話を受ける。ほんとうに、なんの文句のつけようも無い、すばらしい場所で、みんないい人だし、彼らの暮らしも、うまく行っているようにしか見えない。

漁師は桃源郷でしばらく過ごしたが、やがて帰ることに決めた。船のもとに戻る漁師を、仙人たちは見送り、あまり外でここでのことを言わないでほしい、と言ってお別れをした。しかし、元の暮らしに戻った漁師は耐えきれずに、国のお偉いさんなんかに桃源郷のことを話してしまう。そうして桃源郷を目指すものが現れ、かなり大規模な調査が行われようとしたが、まあ見つからない。どうやっても全然見つかりませんでした。あれは幻だったのかもしれないな、というお話。


わたしは、ざっくりとではあるが一読して、あれ?と思った。
あれ、というのは、その、『桃花源記』に記された「立派な門に丸い穴が空いていて、そこをくぐると、桃の花が咲いていて」という部分、その場所に、完全に見覚えがあるということだ。あとから偉い人たちがどれだけ探しても見つからなかった夢幻の桃源郷に、わたし行ったことがある。

ちょっと頭おかしいのかな、わたし、と考える。それか、夢でも見た記憶だろうか。
でも行った事がある。絶対ある。小さい頃。ただ、あたりは海や川ではなかった気がするんだけど。芝生だった。たしか。

そう、芝生だった。芝生だったことを思い出したとたん、桃源郷の記憶が、するするとめぐった。芝生の広場のある、隣町の公園。その、芝生の向こう側の、奇妙なお城。見たんだ。確かに。しかもそこで結構遊んだ。


そんなわけで、自らの頭の正常さを確かめるために、先日、その公園を訪ねてみた。
10年以上ぶりで場所を思い出せず、自転車でぐるぐると隣町を徘徊した末、ようやくたどり着いたその公園はとても平穏で、風が新緑をくぐり抜け、若い芝生がすらりと生えている。小さい頃はかなり広く感じていたのだけれど、それほどだだっ広くなく、入り口で自転車を降りてすぐにまあるい公園の全景をざっと見渡すことが出来た。

そして、肝心の桃源郷。
それは確かに芝生の向こう側に見えた。案外身近な理想郷。ああ、頭おかしくなかった、と安心する。
たしかに丸い門。傍らに『桃花源』の文字。そしてちょうど、きれいに桃が咲いていた。
桃の花というのは、想像していたよりも凛々しく、力強くってきれいだった。4月下旬くらいまで咲くものらしく、梅桜桃の類のシーズンはもう終わったと思い込んでいた私には、それだけで夢夢しく、おとぎの国にきたなあ、という気分になった。


ただ、さすがに仙人はいなかった。代わりにちびっ子ギャングが数人大暴れしていた。残念ながら桃源郷は、若い彼らに侵略されている。

塀の奇怪な落書きと、塀の上に登ってジャンケンをする彼らの姿を見て、私もかつてここで散々ごっこ遊びやら追いかけっこをしたことを思い出した。彼らと同じように侵略者だった少女の頃のわたしは、桃の木をよじ上って塀に登ることができただけで、すごくかっこいい存在になれた気がしていた。あの頃はもう戻らず、もうあんな大暴れするポテンシャルはないし、あのとき一緒にあそんでいた子たちとも会わなくなってしまった。こうして同じ場所を訪れるのでも、今は自分の頭がおかしくないかどうか、記憶をたぐりにきただけ。終わったなあと思う。

戻れないあの日を想いしみじみしていると、塀の上にいたちびっこギャングのうちの1人が、仲間のじゃんけんの不正を訴え大声で叫びはじめた。彼らにとっても、いずれこの芝生の果てが戻りたくても戻れない桃源郷になるのだろうなあと思う。仲良くしろよと呟いて、わたしは桃源郷を去った。

夏あたり、あの芝生の公園で、桃源郷をながめながら、ピクニックがしたい。大人なので、夜のピクニックでもいいな。

























2013年4月20日土曜日

非実在


新しく買った白いワンピースをきて散歩に行った。

近所の単調な住宅街にぽっかり現る公園に、八重桜がたくさん咲いていた。

風がびゅうびゅう吹いていて、花びらが公園じゅうを舞う中、こどもがキャッキャと遊んでいる。風の音を聞くことすら久しぶりで、幻でも見ているような気分になった。

わたしはその場に立ち止まって幻を眺め、大変に良い気分になっていたが、小学生くらいの女の子たちの、通り過ぎざまにこちらをチラチラ見ながらの会話、「いまの白い服の女の人、一瞬幽霊かと思った」「でもiPhone持ってたし生きてる」「びっくりした〜」とのこと。自分の方が幻みたいになっていた。

いつもすこし、生気が足りないんだよな。
まいった。



















2013年4月18日木曜日

417


日記。

きのう 2013年4月17日

渋谷シネクイントで幻想と詩とエロチシズムの「寺山修司◉映像詩展」を見る

日替わりでいろいろやってて、そのうちの実験映画集2という回。
『檻囚』『トマトケチャップ皇帝』『ジャンケン戦争』『蝶服記』『書見機』『二頭女-影の映画』の6本の短編映画がひとまとめで見られる。

6本の中で一番印象的でなんだそれっておもったのは「ジャンケン戦争」かなあ。将軍と皇帝らしき恰好をした男が延々じゃんけんぽんをして、負けた方は勝ったほうに砂を掛けられたりタイヤで殴られたりパンツのなかに石を入れられたりする。ただそれだけの15分間。
この醜い戦いがおそらくこの世のなにかしらをたとえているのだろう、と考えると確かにそんな感じがしてくる。よくわからないけれど。ちなみに一部youtubeにあった。





評判を聞いて期待してたけど短縮されていて消化不良だったのが『トマトケチャップ皇帝』。子供のアナーキーさだけが胸にこびりつく。ほんとはジャンケンのやつもこの作品の一部だったらしい。完全版で見たい。

実験映画は大抵一度見ただけじゃ意図を汲めないけど好き。
わけわかんないから好き。
適度にぼんやりと、適度に探りながら、見ていることができる。
反社会性の精神を持ち合わせた人などはきっとそうではなくて、寺山修司に限らず大半の実験映画を熱い気持ちで見る事ができるのかもしれないなと思うのだけれど、おそらく私は社会に反旗を翻したいなんて微塵も思っていないと思うからぼんやりと見る。あと頭が悪いから。


土曜日、今度は『書を捨てよ町へ出よう』を見に行こうと思う。
これ、同名の本は読んだのだけれど、寺山修司の小説はどうも苦手。どうも、男くさすぎるというか、ヤンキーくさくって。こういうとき、自分は女なのなあ、と思う。

それから、ポスターハリスで関連展示(ポスターハリスギャラリー『寺山修司と天井桟敷◉全ポスター展』)もやってるらしいのでそれも土曜日に。



本当は天井桟敷の舞台が見たいから70年代に生まれればよかったなあとおもう。
『毛皮のマリー』を再演して欲しい。パルコさん。美輪さん。
あと『観客席』の戯曲をずっと読みたいんだけど図書館にない。本当は再演してほしい。




メモでしかないひどく怠慢な日記になってしまったけどおしまい。

下書きはたくさん、あるのだけれど、
なかなかしっくりかけないなあ、せっかくはじめたのに。


2013年4月10日水曜日

なまやさしい


すべてのやさしい人は皆、めちゃめちゃ抱えこんでるのだろうなと思う

いつも笑っているけれど
心のなかにはいつだって爆発しそうな気持ちがあるのだろうなと思う

わたしはあんまり怒ったりはしないけどほんとの優しさを持ち合わせていないので
今朝、部屋に飾っていたチューリップが枯れていたということだけで、いろんなものが鬱陶しくて爆発しそうになって、できるなら何の気か知らないけれど放たれるどこかのミサイルをひとつづつ握りつぶしたいくらいむかついている。

やさしい人はつよい人だから、爆発しそうな気持ちを強さでなにか良いものに変えることができるけど、
わたしは、つよくないので、枯れた花をおもいきり外に捨ててしまった。
花は何も悪くないんだけど、ただ、枯れた姿ということが、どうにも耐えられなくて、わたしをいま悲しくさせないで、と思って、投げるようにすててしまった。さようならも言わなかった。


だけれどわたしも人として、つよくやさしくいなくちゃならんので
常に笑って溌剌と暮らしていけなきゃこまるので

じゃあどうしたらいいんだっていう話です。
美談にすらできないな。なにがむかつくわけでもないんですけどね。













桜が咲いていないいま

あまりにも開きすぎたチューリップは狂った年増な女みたい









2013年4月2日火曜日

夢日記とメモ


うたた寝をしていたら、夢に若い頃のムラカミハルキが出てきた。
まあわたしは若いころのムラカミハルキがどんな顔かしらないはずなんだけど、夢のなかではその若い男がムラカミハルキであるということに合点がいってたので、ムラカミハルキなんだろうと思う。

わたしはその若かりしムラカミハルキと2人でいた。古い家の縁側のようなところで、話をするわけでも、キスをするわけでもなく、ただ、黙っていた。わたしは床に座っていて、彼はそこらを少し歩いたのち、少し離れたところに座った。

ムラカミハルキはすらりと背が高くて、耳にかかるかかからないか位の長さの黒髪で、学生服に下駄を履いていた。色白で、憂いを帯びたような整った顔をしていた。無駄のない足取りでてくてくと歩き、必要以上に笑うことがなかった。かっこいい人だと思った。すごくすごく、かっこいいんだなあ、と思いながら見ていた。

彼はわたしに、
「ピスタチオのジェラートが食べたいね」
と言った。唐突にそう言ったのだった。
わたしは何も言えなかった。何か言いたいことはたくさんあるような気がしたけれど、言葉にならず、なにかを試すような彼の横顔を黙って見ていた。

そういう夢だった。

うたた寝から覚めると、わたしは夢の続きについて延々と考えた。あのとき、どうするのが良かったのだろうかということを。

・すぐにその場を立ち上がってバスに飛び乗り街に出て、ピスタチオのジェラートを買い求める。
・そこまでしなくても魔法のように冷凍庫からピスタチオのジェラートを取り出し、グラスに盛り付けて見せる。
・なんならついでに庭に降りていって、ピスタチオの木(ピスタチオが木に生えるものなのか、はたまた庭に生えるものなのかは知らないけど)の下に梯子をたて、2つ3つもぎとってジェラートの傍らに飾り付ける。

たとえばそんなふうにしていたら、ムラカミハルキはどんな顔をしたであろう。わたしと彼は、笑って話をしたり、キスをしたりしただろうか…!


そんな風に来るはずのない夢の続きに思いを馳せたところで、実は村上春樹の作品は、『ノルウェイの森』しかちゃんと読んだことがない。
『夢で会いましょう』というのも最後まで読んだけれど、あれはたしか糸井重里との共著だった。あと『1Q84』を途中まで読んだけれど、途中で古川日出男の新刊に浮気して、結局最後まで読んでいない。

だからそれといって村上春樹のファンというわけでもないのだけれど、唯一最後までよんだ『ノルウェイの森』の中に、忘れられない一節がある。

それは主人公のワタナベくんとミドリがする会話で、長くなるけれど抜粋してここにメモしておく。夢の中でピスタチオのジェラートを食べたがるムラカミハルキに出会わずとも、これからも度々思い出して考えることの多い内容だと思うし、朝までまだ時間があるので。

ーーー

「私すごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしいのよ」

「完璧な愛を?」

「違うわよ。いくら私でもそこまでは求めてないのよ。私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。
たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて、『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ、すると私は『ふん、こんなものもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めてるのはそういうものなの」

「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどな」

「あるわよ・・・女の子にはね、そういうのがものすごく大切なときがあるのよ」

「苺のショート・ケーキを窓から放り投げることが?」

「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを
食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?』」

「するとどうなる?」

「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」

ーーー

この会話について、村上春樹好きの友人と何度か話をしたことがあったが、大抵「見返りを求める愛」だとか「無償の愛」とかいう話になった。
でも誰も愛のことなんてわからなくて、途中でこっぱずかしくなって、結局「ミドリとナオコ、どっち派か?」みたいな話に落ち着く。

わたしたちはそうやって何度も愛の定義を、居酒屋の天井に宙ぶらりんにしてきたものだ。

ミドリだって「そのぶん愛する」っていうのがどんなことなのか、宙ぶらりんにしたまま掴めずにいるように思う。

ミドリの言う「そのぶんの愛」の概要はおそらく、彼女たちの寂しさや弱さや傲慢さや必死さや不安のかたまりだ。
それがどのように表されるのか、いや、愛っぽく表すことができるのかどうかは、彼女たちにとって、わからないことなのだ。わたしにもわからない。
そしてそれは村上春樹にも、ムラカミハルキにとっても同じようにわからないことなのかもしれない。


そのわからなさ、むつかしさ示すかのように、わたしが先程読んだと書いた糸井重里と村上春樹の共著『夢で会いましょう』の中で、村上春樹は『ブルーベリー・アイスクリーム』というタイトルの短編を書いている。

その短編はこうはじまる。

ーーー
「ブルーベリーのアイスクリームが食べたい」と夜中の二時に彼女が宣言した。

ーーー

ミドリみたいな彼女が、ここにもいるのだ。
そして物語の主人公はそんな彼女のために、実際にブルーベリー・アイスクリームを探しに行く。
だけどそんな真夜中にブルーベリーのアイスクリームだなんてそう簡単には手に入らなくて、けっこうとんでもない面倒に逢うんだけど、なんとか手にいれて彼女のもとへ戻る。で、ネタバレしちゃうけど彼女は既にぐっすり眠っているんだ。そして何を責めるわけでもなく話は終わる。主人公にその分の愛は与えられない。

愛はむずかしい。夢に出るほどわからない。どんなに考えたって、自分がきちんとなにかを愛することができるのかわからないし、与えられた愛にさうまく気付けないようにも思う。
だれかと語り合いながら紐解こうとしたって、小っ恥ずかしさのわりに厄介で、堂々巡りの代物だ。

ムラカミハルキは夢のなかでそれについてわたしに問い、宙ぶらりんのわたしはなにもできなかった。

でも、もういっそあの時「一緒に買いに行こう」って言えばよかったのかな、とはちょっと思う。そういうことじゃないのかもしれないけど。全然違うって言われてしまうかもしれないけど。

でもほんとうはそれがいいな。一緒に買いに行って、愛とかはそのあとでいい。よくわからないし。






















2013年4月1日月曜日

満月

嘘のような月は嘘つき
餅のような月は餅つき
行けばすぐ住める月は家具家電つき
きつい月はきつつき
きょうみんなは嘘つきなんだね

ほんとのことなんて今日くらいしか言えない
みんなみんなだいきらい
この世よおわれ
世界のおわりに
ほんとうにほんとうのことを言います



狼みたいのが遠くでないてる
今夜は満月かな
外に出ていないのでわからない