2013年3月28日木曜日

時間が過ぎるのがはやすぎて。

遠くにいきたいな







2013年3月27日水曜日

湘南乃風『純恋歌』に関する思い出と考察


昨晩、ねむる支度をしていたら外から湘南乃風が聞こえてきた。
近所の不良が車で流しているのだろう。
夜空へ響け愛の歌、とのことだ。

大ヒットした湘南乃風さんの「純恋歌」だが、わたしの知り合いでこの歌をリスペクトしているひとは2人しかいない。

1人は、高校生のときバイト先で親切にしてくれていた1つ年上の男の人だ。
カラオケに誘ってもらって行ったときに「これは今オレの心にスッポリはまる歌」と語った上で心をこめて歌ってくれた。

わたしはその時まで「純恋歌」を聞いた事がなかったので、一生懸命歌詞をひろいながら聞いた。

しかし、この歌はわたしにはなかなか理解に苦しむものだった。
まず、この歌の中に登場する人たちは、おそらく言い回しやその遊びっぷりから判断して自分のようなインドアな人間ではない。
しかも、主人公が惚れた女の人が主人公のことをどう思っているかを測れる部分が一切登場しないから、いまいちストーリーにドキドキを見出せない。
自分とまったくタイプの異なる男が「いい女と出会ってこれ俺マジだわ」って高ぶってるのを延々聞かされたって、なんていうかこう「そうですか…」としか思えなかったんだ。


その上、バイトのお兄さんはクライマックスの部分で突然わたしの肩を抱き、ご自身の額のあたりをわたしの額にくっつけてグリグリしてきた。

びっくりした。
彼は年上だけどタメ語でいいって言ってくれたからずっとタメ語で喋ってたんだけど、純恋歌の直後からまた敬語で話してしまうようになった。
べつに嫌がらせとかバカにしてるとかではない。クラスのリーダー格に対してクラスの地味キャラが敬語で話すのと同じで、自然と敬語になってしまったという話だ。

女子の中にはそんなことされたらたまらなくキュンときちゃう人も多いんだろうけど、たぶんそういう女の子は純恋歌の歌詞のなかに出てくるような人たちで、そういう人たちの方が世の中には多いからあの歌はすごく流行ったのだろう。

ただわたしはあの頃、サブカルへの憧れをこじらせたキャピキャピ感に欠ける女子高生で、メインカルチャーに自然と精通するキャピキャピした人たちに対して卑屈な劣等感を感じていた。だからもう、折り合いが付かなくなった時にパチンコに行って景品持って謝りにかえる、なんて恐ろしい話でしかない。

もちろん、その人が悪い人というわけでは全くなく、胡散臭いわけでもなく、むしろとても立派な人であったし、おそらく純粋な気持ちで純恋歌に共感していたのであろうから、ただただ私がそれに至らなかったというだけのことなのだけれど。

カラオケのあと彼はわざわざ純恋歌のCDを貸してくれたので、わたしもその時はまっていた銀杏だかZAZENだかのCDを貸そうとしたのだが、以後疎遠になった。

元気かなあと思うけど、純恋歌の印象がつよくて名前を忘れてしまった。


ちなみにもう1人の純恋歌リスペクターは3つ年下の、私の弟である。

純恋歌がチャートにあがらなくなってしばらく経ってから純恋歌を聞き出したちょいズレな弟は、おそらく歌詞がどうとかではなく、ただあの「仲間!海!ドライブ!」みたいなイメージを彷彿とさせるサウンドにハマっていたのであろう。たまに自宅で熱唱することがあったが、歌詞がことごとくテキトーだった。

ここらでもうずっと忘れられない弟のメチャメチャ純恋歌の歌詞を紹介し、この傲慢でしょっぱい自己顕示的な雑文を締めくくろうと思う。

以下、我が弟のうたう純恋歌の歌詞。

「大貧民の彼女のオレ
おいしいパスタ作ったオレ
家庭的なタイプの女、オーレ
ベタ俺〜

大貧民に俺マジギレ
それ見て笑って楽しいねって
家庭的なタイプの女のオレ
オレオレ〜

嬉しくて嬉しくて
柄にもなくスキップして
好きっていいてえ、
おぼろげなオレをみつめる君に釘付け

守りたい女って、思ったはじめて
真面目な顔してギュッとベタ俺〜

目を覚ませば幾千のオレ
いちばん好きなお前が欲しい
はじめて一途になれたよ〜
夜空へ響け純恋歌〜

※ 以下繰り返し 」


とのことだった。











2013年3月19日火曜日

スワン


すっきりしないので買い出しついでに井の頭公園を散歩した。

桜は一分咲き。
飲み物を買って柵の上に座って、
スワンのボートに乗り込んだ親子を眺めていた。

若い父親は懸命にボートを漕ぐ。スワンのおしりからは絶え間なく力強いあぶくが出ていた。少年はぼんやりと父親のとなりに座り、そこいらじゅうを指差している。

ふと、少年が濁った池の水に手を伸ばし、父親が止めるのを待たずしてその手を口に含んだ。
アッ、というふたりの声とともに、スワンのおしりから出ていたあぶくが尻すぼみに出なくなった。
スワンは止まり、彼らは向き合ってなにかを話し、少年は父親に抱きついた。
少年にとって、花びらまじりに濁った池の水と、父親の体にまとわりついた汗と、どちらのほうが冷たかっただろう。

やがてスワンは再びあぶくを立てはじめ、彼らは広い池のむこうのほうに消えて行った。











2013年3月18日月曜日

気が狂ってる


寂しさは狂気の一種だな、と思う。
というか感情の昂りが為すムードはなにもかも狂気じみてる。怒りも悲しみも喜びも愛しさもすべて。

物語は記号論だ
計算式のようなもの
いい例は映画だ。
ハリウッド映画には公式が存在する。
開始何分でだれか死に、その後何分で主人公が語り、それでこうなってこうなってこうなる。その公式がハリウッドの脚本術だ。
だからみんな同じっちゃ同じ。

では何が違いを生むか。
感情の昂り、それが故の言動、
つまり狂気だ。

わたしの物語もあなたの物語も本当は狂気で紡がれている
狂気で世界は回っている
狂気に生かされている



今日は狂いそうになることがたくさんあったんだけど、よく考えたらずっと何もかも狂ってしかいなかったなあと思った。
あとひさしぶりに映画『レオン』を見た。
狂ってた。

2013年3月14日木曜日

ささやかな絢爛


花はしる飛ぶほとばしる巡り巡る 夜のことなどしらないように











2013年3月11日月曜日

追憶


カナしみはまろやかな日々に溶けゆけどなお鮮やかに青く染みてく







2013年3月9日土曜日

うんざりした人


渋谷のオープニングセレモニーに、カート・コバーンの写真を見に行った。

展示されていたのはカートの生前最後の写真だということだった。
カート・コバーンというひとは27歳で自分で死んだから、
だいたい26歳とか27歳とかそのくらいの時の写真なんだろう。

わたしは今年24歳なので、あと数年すれば写真のカートの歳に追いついてしまう。
カートのことを知ったときわたしは17歳くらいだったから、10年経ったら世の中のことがうんざりするほど分かるようになるのだろうなあ、と思っていた。
だけどいまのところまだ何もわかっていない。
わからないから希望に満ちてもいなければうんざりもしていない。
だから死ぬか死なないかでいったら、殺されたら死ぬのだろうけど、なんだかんだ死なないかもしれない。
人間ってそう簡単には死ねないんだ。

だけど27歳でうんざりして自分の頭を撃ち抜いて死んだ人がいる。
スターにはスターのうんざりがあったのだろうな、と思う。死ぬほどのうんざりがこの世には存在する。

展示されていたほぼすべての写真のカートはサングラスをかけていて、その目の色はわからなかったのだけれど、
サングラスの奥の目の奥の奥ではこのときもう死ぬほどうんざりしてたんだろうなと思うと、逆にカートコバーンさんというひとはよく生きていたんだなあという気がした。

うんざりするほど生きなくては、と思った。




展示は渋谷のオープニングセレモニーの5階でやってました。3月24日の日曜日までとのこと。無料でさらっと見られました。重々しい展示じゃなくてよかった。

2013年3月7日木曜日

感傷


真夜中
突如感傷的になり、何年かぶりにギターを引っぱり出して弾いた。
中3の時に買った青いエレキギターは、弦の裏側までホコリだらけだった。

インターネットでユーミンの『翳りゆく部屋』のコード進行を調べてわざわざそれを弾く。
園子温の『気球クラブ、その後』というやたらめったら甘酸っぱい映画の主題歌で、
劇中登場人物たちがこぞって歌っていたのがずっと頭から離れずにいた。
過ぎ去った時間の果ての孤独のようなものが、歌詞のはじめから終わりまでしっとりとしみ込んでいて、それはそれは寂しい曲だ。

ギターの夜が明けてまた夜がきて考えてみるとこの選曲はちょっと感傷的が行き過ぎている感じがした。
しかも聞くだけならいいけどいきなりギターを出してきて弾くっていうのはなかなかまずい。
まあ日常的にギターを弾く人ならともかく何年かぶりっていうのがまた危ない。そもそもわたしはユーミン世代ですらないし、もう昨晩の自分が心配になる。

まあ別に、なにがあった訳でもなく、かといって無いわけでもなかった。
夜のセンチメンタルというのはそういうもので、よくない発作と同じだ。

だれだって感傷的になってしまうときはあって
真夜中なんてセンチメンタルにとっては恰好の巣窟だ
操作しないままの携帯電話の明かりがふっと消える事も、
片耳からふっとイヤホンが落ちることも、
空いたマグカップの底にコーヒーの跡がのこっている事でさえ、
水色のような、濃紺のような、濃さも薄さもわからない切なさを蔓延させる。

そして感傷との向き合い方はいつだって本能的だから恐ろしい。
つまりは真夜中のそういう自分のほうが本当っぽいからとてもいやだ。
朝がきてからの小っ恥ずかしさだけで1日がだめになるかと思う。

だけど人が感傷的になっているところはとても素敵に見える。
正直に感傷的になれる人がすきだ。
前述のとおり、人間はそういう姿の方が残念ながら本物っぽいからだ。
このひとはちゃんと人だなあと思う。だからそういう人の方が好きだ。

同じ理由でユーミンの『翳りゆく部屋』はもうとてもセンチメンタルすぎて勘弁してとおもうけれどもとてもとてもとても素敵な歌だなあと思う。

嫌だけどきっとわたしも感傷を恐れている場合ではないのだろう。
こんな風になにか歌や別の人の言葉を借りなくともそれをありのまま言い表せるようになりたい。それができれば感傷を昇華して小っ恥ずかしくなく暮らしていけるのであろう。殆どのコードをわすれたし、ギターはちっともうまくひけなかったのだ。








2013年3月3日日曜日

ホールドタイツ ミー

昨晩はぜったいはやく寝なきゃ今日やばそうなのに、やばそうな今日が心配で眠れなかった。

きのう家に帰って靴を脱ぐ時にはいてるタイツが伝線してるのに気づいた。いつから伝線してたんだろう。気になるけど思い出す手だてが無いので、タイツのしくみをたしかめようと思ってつねったりひっぱったりしてよく見てみた。仕組みがわかれば直せるかもしれないと思った。
タイツっていうのはすごい。1本1本の糸がすごく細くて伸び縮みするのにかなり切れにくい。
あと織りがすごく細かい。でも案外縦糸がすくない どうなってるんだろ。
いろんな発見や不思議があったけれど結局直す方法は見つからなかった。むしろ引っ張って見ているうちにどんどん伝線してビリビリのタイツになってしまった。
でもそういえば一時期こういう破れまくったタイツはいてる女の子がたくさん街にいた時期があった。見かけるたび狂気をかんじて自暴自棄になるなよ、と思っていた。

春になったらビリビリじゃないかわいいタイツをはきたい。

仕事にいきます。