真夜中
突如感傷的になり、何年かぶりにギターを引っぱり出して弾いた。
中3の時に買った青いエレキギターは、弦の裏側までホコリだらけだった。
インターネットでユーミンの『翳りゆく部屋』のコード進行を調べてわざわざそれを弾く。
園子温の『気球クラブ、その後』というやたらめったら甘酸っぱい映画の主題歌で、
劇中登場人物たちがこぞって歌っていたのがずっと頭から離れずにいた。
過ぎ去った時間の果ての孤独のようなものが、歌詞のはじめから終わりまでしっとりとしみ込んでいて、それはそれは寂しい曲だ。
ギターの夜が明けてまた夜がきて考えてみるとこの選曲はちょっと感傷的が行き過ぎている感じがした。
しかも聞くだけならいいけどいきなりギターを出してきて弾くっていうのはなかなかまずい。
まあ日常的にギターを弾く人ならともかく何年かぶりっていうのがまた危ない。そもそもわたしはユーミン世代ですらないし、もう昨晩の自分が心配になる。
まあ別に、なにがあった訳でもなく、かといって無いわけでもなかった。
夜のセンチメンタルというのはそういうもので、よくない発作と同じだ。
だれだって感傷的になってしまうときはあって
真夜中なんてセンチメンタルにとっては恰好の巣窟だ
操作しないままの携帯電話の明かりがふっと消える事も、
片耳からふっとイヤホンが落ちることも、
空いたマグカップの底にコーヒーの跡がのこっている事でさえ、
水色のような、濃紺のような、濃さも薄さもわからない切なさを蔓延させる。
そして感傷との向き合い方はいつだって本能的だから恐ろしい。
つまりは真夜中のそういう自分のほうが本当っぽいからとてもいやだ。
朝がきてからの小っ恥ずかしさだけで1日がだめになるかと思う。
だけど人が感傷的になっているところはとても素敵に見える。
正直に感傷的になれる人がすきだ。
前述のとおり、人間はそういう姿の方が残念ながら本物っぽいからだ。
このひとはちゃんと人だなあと思う。だからそういう人の方が好きだ。
同じ理由でユーミンの『翳りゆく部屋』はもうとてもセンチメンタルすぎて勘弁してとおもうけれどもとてもとてもとても素敵な歌だなあと思う。
嫌だけどきっとわたしも感傷を恐れている場合ではないのだろう。
こんな風になにか歌や別の人の言葉を借りなくともそれをありのまま言い表せるようになりたい。それができれば感傷を昇華して小っ恥ずかしくなく暮らしていけるのであろう。殆どのコードをわすれたし、ギターはちっともうまくひけなかったのだ。
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