2013年5月12日日曜日

廃屋

訳あって、廃屋と成り果てている田舎の小屋を訪れた。

雑草にまみれた敷地の奥にひっそりと佇んでいるその小屋は、かつて物置きのようにして使われていた木造の小屋であるらしい。辺り一帯を真空パックにして無理やり時を止めたような独特の不気味さを醸しており、わたしは案内してくれた不動産屋のおじさんが小屋の鍵を開けるのを見つめながら「なんか出そうでやだなあ」と呟いた。

おじさんはしばらく黙って入り口の古い鍵と格闘していたが、やがてガタガタと扉を開け、おどけたような口調で「それがね、何も出んとよ」と言った。
なんでも、なにかそのようなものが住み着いていたらいけない、ということで近所の方の知り合いの霊媒師さん的な人に見てもらったことがあるらしい。
曰く、「こちらには人の霊も動物の霊もなにもいませんからご安心ください」との事だったそうだ。
「なにしろ物置だったけんね、特になにかの念が残ることもなかよ」おじさんはそう言ってガチャガチャと鍵をポケットにしまった。

「そうですか、それは良かった」
わたしはそのように言ったものの、霊すらもいないほんとうの空っぽに入っていくというのは、それはそれで恐ろしいことのような気がした。たとえば真空の瓶をあけると一瞬の間もなく空気が吸い込まれるように、自分が空っぽ中の空っぽの小屋に一瞬の間もなく取り込まれていくようなイメージが脳裏を何十往復も駆け巡った。

しかし心配も束の間、ほんとうの空っぽというのはそう滅多に起こり得ないことであるようで、足を踏み入れるや否やそこにありありと在るホコリの存在に気付かされた。棚も電灯も一部の床すらもない癖に、ホコリだけが有り余る程存分にあったのだ。それから台所の入り口の柱に1992年の6月のカレンダーがあったけれども、この小屋の中ではホコリばっかり威張っているもんだから、カレンダーはどうやら肩身が狭いらしい。力なく傾いて、とても申し訳なさそうにしていた。

さて、ほんの一瞬こそここがほんとうの空っぽでないことに安堵したわたしだったが、威張り散らす大量のホコリも古すぎるカレンダーも結局は忌まわしいものでしかなく、すぐ近くのディスカウントショップで雑巾と軍手とはたきを買ってきてそこをほんとうの空っぽにしてやった。

小屋の掃除を終えてから近くの銭湯に行った。帰りの車の中で、自分の父親が幼い頃先ほどの小屋を秘密部隊の基地に見立てて遊んでいたことを聞いた。父がかつて率いていたものが秘密部隊だっただけに気付かなかったが、あの小屋はあれだけホコリを払っても空っぽにはなり得ないようだった。
ホコリが威張らなくなったあの小屋の中で、父の思い出だけがカラカラと音を立てながら飛び回るのが、自宅に戻った今になって聞こえる。





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