きょうは昨日までにくらべて涼しかったものの、春ということに変わりはなく、春だから眠たくて、昼間にすこしだけ横になって眠りました。
幾分かすっきりしたような気がしたけれど、昼過ぎに夕飯の買い物に出たら、いまにも雨のふりそうな予感がするくせになぜか日向だらけだし、曖昧な感じが鬱陶しくて、すぐにまたぼんやりとしたくなりました。
きっと五月のこういったモヤリとした空気が、いろいろな物事の輪郭を曖昧にして、大人を憂鬱の淵に追いやるのかもしれないなあと、ため息が出て、そういえばこの間、友達の元気がなくて「どうしたの」ときいた時、友達は「ゴガツビョウだよ」と答え、持っていた紙パックのジュースのストローを遠い目のまま口にしたのだけれど、そのままただストローをくわえているだけで、ちっともジュースを飲んでいなかったことを、ふと、思い出しました。きっとその友達も五月のモヤリにぼんやりさせられていたのだろうと思います。だからほんとうに、五月はこわい。
ただモヤリの五月に、唯一救いがあるとすれば、それはそこいらじゅうの住宅などの垣根におおぶりのバラがばつばつと咲いていることで、何が良いかって、あれだけ大きくて美しいバラであれば、さぞ大きなとげをたくさん持っているんであろうくせに、バラ自身それについてどういうつもりでいるのか、飄々としていてわからないところ。それから、花びらの折り重なりの完璧さ、1つ1つの花の配置のバランス、凛とした趣もだらしない色気も持ち合わせた丁度いい塩梅で頭をもたげているところも、ぜんぶいい。
そういうバラたちの暮らしに道端のところどころで出くわす度、わたしは救われたような、愛おしいような、とても晴れやかな気持ちになります。他所のお宅のバラだけど、挨拶のひとつでもしたいくらい。
こうやってバラのことを思い出すだけで気分が良くなるわけだから、バラは、少なくともわたしにとっては、ゴガツビョウの類いには抜群に効くわけです。一昨年のちょうどいまごろ、家族に悪い病気が見つかったりいろいろで、ほんとうに落ち込んでしまった時期があって、そのときはもう、ほんとうにだめで、自転車でただ道を通っているだけなのに、「もういやだ」とかそういう言葉が、口をついて出てくるほど腐っていたのだけれど、兎にも角にもそれがバラの咲く時期で、わたしはほんとうに助かった。もし、あれが真冬の、枯れ木枯れ草だらけの時期だったら、わたしはもうここにちゃんといたかどうかも分からないんじゃないかと思うし、だからバラが飄々と咲く世界で暮らせて幸せです。生まれ変わったら、わたしもそういうバラになりたい。
いま部屋の窓を開けているのだけれど、こうしてバラのことをかんがえていると、雨のにおいに紛れて、どこからともなくバラの香りがしてくるような感じがします。もういっそ窓をあけたまま寝てみようか、いい声きこえそうか、と思うんだけれど、風邪ひいちゃうからだめか。まあ窓閉めて寝たって、結局部屋が寒かったり、ちゃんと布団かけなかったりしたら風邪ひくと思うし、やっぱり開けたまま寝たって、かまわない気がします。わたしはちゃんと布団をかけて眠るし、窓しめたところで夜があけそうです。
いま部屋の窓を開けているのだけれど、こうしてバラのことをかんがえていると、雨のにおいに紛れて、どこからともなくバラの香りがしてくるような感じがします。もういっそ窓をあけたまま寝てみようか、いい声きこえそうか、と思うんだけれど、風邪ひいちゃうからだめか。まあ窓閉めて寝たって、結局部屋が寒かったり、ちゃんと布団かけなかったりしたら風邪ひくと思うし、やっぱり開けたまま寝たって、かまわない気がします。わたしはちゃんと布団をかけて眠るし、窓しめたところで夜があけそうです。
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